量子的自己の脱・世間と脱・社会

http://d.hatena.ne.jp/essa/20060321/p1
アンカテ(Uncategorizable Blog)
 
 日本におけるアイデンティティ論を含んだ、とても興味深い文章です。
かなりタグ付けに迷ったけど、広い意味でのSexualityタグでしょ。
 


 社会は、自我の位置が確定できるというフィクションを元にできあがっている。
(中略)
 量子的な観点から見ると、人間は、複数の見解を同時に持つことが可能であり、
複数のサイトに代表される複数の立場に、この人は同時に存在していることになる。
(中略)
最新の認知科学が明らかにしつつあるように、
境界の明確な単一の古典的自我というのは、
人間の脳の動きと関係ないフィクションである。
そのフィクションを元に構築された西欧的近代社会には、無理がある。
 
「世間」や「空気」と輸入された西欧近代という二重構造のシステムは、
その葛藤を中和する大きな意味があったのではないだろうか。
 
そして、その機能を果たす上で、
言語化されない」ということが重要で、
日本人は無意識的に「世間」に組込まれた時点で、
それを明示的に意識して言語化することが無いような
暗黙の指令を同時に与えられている。
 
・脱・世間としての量子的社会スキル
しかし、「世間」や「空気」は、権力と接触した時点で実体化する。
その結果、誰も責任を取らない意思決定の元で、社会全体が暴走する。
長年の間、日本人にとって西欧近代的社会とのバッファー、
緩和剤として機能してきた「世間」や「空気」が、
包摂の為のツールから排除の為のツールに変貌しつつある。
 
80年代以降、徐々に、そのように「世間」や「空気」を、
自分と敵対するものであるが、(言語化できないだけ)反発しようのない
強大な権力の装置と受け取る人が増えてきている。
(中略)
そして、自分の持つ反感を抑えて「世間」の一部となった人は、
「世間」の攻撃的、排除的な傾向を拡大再生産することになる。
 
「世間」や「空気」からの圧迫感に対抗する為のツールとして、
量子的社会スキルが必要とされているのかもしれない。